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タイトルに深い意味はありません。



中越地震3(2005.02.27)
気が付けばもうすぐ3月。早いものです。
雪国育ちのわりに冬という季節があまり好きではないのですが、春が待ち遠しい年はありませんでした。家の雪下ろしの回数が8回、この間なんか4週間連続で日曜日に 雪下ろしをしたし。とにかく雪にはうんざりです。2月になれば、2月の半ばになれば、3月になれば、...降る雪を見てそんな事ばかり考えていました。 あと、「そうまでして田舎で暮らす必要があるんだろうか。」と真面目に考えてしまいました。

続き...

暗闇のなかを家に向かって歩く。
その時は暗闇の中でもそれほど歩くのに苦労しなかったから、たぶん、月が出ていたんだろう。その時は気が付かなかったけど、月明かりでもなければ本当に真っ暗闇で 家に向かうのも難渋したはず。歩きながら村内の道を観察するが、若干の亀裂が分かる程度で、崩れたり隆起したりしてはいない模様。
家の前まで来る。家の中がほのかに明るい。玄関の戸は開けっ放しで地震の揺れで開いたままの状態だった。家の中に入ると、父親が一人コタツの前で丸くなっていた。 目の前にはロウソクが1本立ててあった(あの頃はもうコタツを出していた)。ロウソクの灯りで室内を見ると、テレビ台からテレビは落ち、棚は倒れ、額も落ち、 足の踏み場もない状態だった。父親に被害状況を聞いたが、とにかく凄い揺れだった、との事。余震も続くし停電しているから動かずにただじっとしていたそうだ。
母親が家に居なかったので、聞いたら村の公民館に避難したとの事。父親は家が心配だし僕が帰って来た時の事を考え、家に残ったそうだ。 とにかく、村の共同駐車場が避難所になった事、今すぐ避難する事、を父に伝える。が、家が心配だから家に残る、と言い張る。 村としての決定事項だからと話しても「大丈夫だから。」の一点張り。親の性格はよく分かっているし母親の方も心配だったので「絶対に駐車場に避難しろ。」と 言い残して母親が避難したという村の公民館に向かう。
で、村の公民館で着いたが誰も居いる気配がない。父の話ではここに避難したそうだが、ここには誰もいない... みんな何処に行ったんだろう。少し不安になる。 とりあえず、村の共同駐車場に行けば何か分かるかと思い共同駐車場に向かった。足取りは自然と早足になる。

共同駐車場には大勢の村人が集まっていた。
最初に寄った時には数人しかいなかったが、あの後、動ける人達が分担して村人をここに集めた、との事。 うちの母親もここに居た。公民館の外にみんなで避難していたが(公民館は木造なので危なくて中に入れない)、呼びに来た人に従って共同駐車場に移動して来た、との事。 そうこうしているうちに、父親も他の人に説得されて駐車場に避難してきた。子供が言っても聞かないくせに...
とりあえず、家族が無事だったのでホッとする。

区長を中心に村の主だった人達が集まり、作業分担を決める。
若い衆の一員という事で、僕もその集まりに加わった。まだ村に帰り着いていない人も多いらしく、若い衆が意外に少ない。 単独行動は危険なので数人一組で、まだ避難していない人の説得、食料の調達、避難所で夜明かしする為の準備、被害状況の把握、等の作業を分担で行うのだ。 まず、うちの組は村に二軒ある雑貨屋さんから食料を調達する事になった。

続く...

中越地震2(2005.01.30)
栃尾でもこの雪で何軒もの家屋が倒壊しました。
傷んだり傾いたりして危険なため雪掘りが出来ずに倒壊した家屋。村を離れると決めてわざと雪掘りをせずに放置しておいた家屋もあるかも知れません。 でも、自分の住んでいた家が倒壊してしまうのは辛いでしょうね。
今回の中越地震で、長岡市との合併に傾いた人も多かったと思います。「財政難の栃尾市では復旧もままならない。やっぱり大きな町じゃなくちゃ」と。 私もそう思いました。しかし、一方では別の事も考えました。もし、地震発生時に山古志村が長岡市の一地区であったならどうだったんだろう。 今みたいにマスコミに大々的に取り上げられていたのか。地区の代表(村長)が知事に直接掛け合ってヘリを飛ばしたり出来たんだろうか。 大きくなった長岡市の多忙な市長がそこまで動けたんだろうか。
別に合併賛成、合併反対の話を持ち出すつもりはないんですが...

続き...

相変わらず車は進まない。
車の燃料が少なかった事がとにかく心配だ。このままノロノロ進んでガス欠になったらどうしよう、という事を一番に考えてしまう。 地震で陥没したり亀裂が入った道路、また、集中豪雨で陥没しまだ補修が済んでいない道路など、を越えてなんとか桑探峠に向かう道に入る。
あとは栃尾に向かう車しかないはずだから比較的スムーズに進むはず、と思ったが甘かった。栃尾市は7.13集中豪雨の時あちこちで土砂崩れが起きたが、その場所が 集中豪雨から3ヶ月経ったてもまだ復旧されていなかったのだ。 何箇所もある片側交互通行の場所が全てが7.13集中豪雨の土砂崩れ跡。栃尾市が貧乏な町だった事を改めて実感する。

とにかく、栃尾の市街地に入る。道路沿いには人影は見当たらないし、走っている車も極端に少ない。
市街地も停電しているようだが、道路は思ったほど傷んでいない。もしかしたら栃尾は地震の被害が大した事はなかったのではないか、と考えながら、 市街地を抜け自宅に向かって車を走らせる。
しかし、北荷頃を越えたあたりから道路の破損がひどくなってきた。亀裂、陥没、隆起が目立つ。いつもの速度で運転するのは危ないので、速度を落として、 前の道路状況を確認しながら走る。田之口、西野俣、中を越えて自宅に向かうが、道路の状況はさらにひどくなる。陥没、隆起で30センチ以上の段差が出来た道路を 用心しながら避けて走る。もうこの時には、自分の村も大きな被害があったであろう事を確信していた。

うちの村は県道からわき道を少し車で登った山の斜面にある集落だ。何とかこの道を登れば村に入れる、という所まで辿り着く。 この道は時々崩れる場所なので、用心して一旦車を降りライトをハイビームにし先を見ると、案の定、崖が崩れて道路を塞いでいた。 地震の発生時刻が夕方なので、まさか、帰宅途中の村人がその崩れた土砂の下に... と一瞬考えてしまった。
村の入り口まで来たのに村に入れない。 仕方ないので、その先の田んぼの脇に車を停め、小学生達が通学に使う別の小道を歩いて村に入る。とにかく自宅が心配でしょうがない。
後で知った事だが、村に車で乗り入れ出来る道路が3本あるのだがその3本の道路全てが通行不能な状態だったそうだ。

村は停電で真っ暗だった。闇の中を自宅に向かって歩くと、村の共同駐車場の所で人の声がする。
村には冬季に村民が利用する共同駐車場がある。20台近くの車を入れておける村で唯一の鉄骨の建物だ。 その駐車場の前に何人かの村民が居たので話を聞くと、とにかくひどい揺れで被害状況はまだ分からないが、今夜は全村民がこの駐車場に自主避難する事になった、 との事。とても詳しい状況を聞いている余裕もない。私にも早く自宅に戻って家族を駐車場に連れてくるよう頼まれる。 とにかく動ける人間が少ないから出来るだけ早くここ戻って来てほしい、との事。

余談だが、川口町を震源地をする中越地震は、あちこちの場所で大きな余震を誘発した。
もちろん、栃尾もその例外ではなかった。(URL= 削除しました...)

続く...

中越地震1(2005.01.23)
本日はこの冬4回目の雪下ろしをしました(我が家としては5回目)。
屋根に積もった雪は約50cm、通常ならそのままにしておく量ですが、中越地震で痛んだ家屋を心配して親が気をもむので、雪下ろしをする事になりました。 で、今は、疲れてグッタリしています。
中越地震から今日で3ヶ月。ずっと前の出来事のように思えますが、風呂場の亀裂や障子戸の隙間を見たり、今日のような家屋を気遣った雪下ろしをすると あの時の事を思い出します...

平成16年10月23日 午後5時56分、あの日、僕は休日出勤で長岡の事務所にいた。
翌日の日曜日は、長岡市との合併の是非を問う住民投票が予定されており、個人的には栃尾の某飲み屋さん主催の旅行があった為、「そろそろ帰ろうか」と 思っていた矢先の大きな揺れ。確かに揺れは大きかったけど、その時は事務所の物が散らばる事もなかった。その時はこれが"新潟県中越地震"と呼ばれる 地震の始まりとは思わなかった。
それから15分ほど経った午後6時12分に起きた本震と同じく震度6強の余震。こちらの方が揺れが大きかった。立っていられない程の揺れで、棚や机の上の物が 床に散乱した。机の下に潜って揺れが収まるのを待つ時間がものすごく長く感じられた。
この余震で電気が停電し、事務所の中は真っ暗。階段だけは非常電源で灯りがついていたのでその灯りをたよりに外に出ると、近所の人が同じように外に避難していた。 もちろん、何処の家も真っ暗でうちのビルだけの停電ではない事が分かる。近くの信号機も止まっており、クルマの通りも少ない。 みんな、とりあえず路肩に停車して様子を見ていたのだろう。

僕自身、大きな地震の経験がないから、重大な事が起きているらしい、いう実感は湧かなかった。
いつものように暫くすれば電気もつくと思い外で待つが、余震が続くだけで電気はつかない。ようやく「ただ事ではない」と感じて携帯から家に電話するが、繋がらない。 あの時は「電話が込み合っています」のメッセージが流れたのか、「ツーツー」という通話中状態だったか、今では思い出せない。 とにかく不安になり、すぐ家に帰る事を考える。
仕事中に停電したから、まず事務所のブレーカーを落とし、鍵を閉めて帰らなくちゃいけない。 余震が収まった時を見計らって事務所に戻ろうとするが、その度に強い余震が襲い、慌てて外に飛び出す事を何度も繰り返す。 言い忘れたが、うちの事務所が入っているビルは結構古い建物だ。ビル倒壊、圧死...等の言葉が何度も頭をよぎった。
とにかく余震の収まった時に事務所に駆け込み電気のスイッチを切って部屋に鍵をかけ、転がるように外に飛び出し、車に乗り込む。 やはり気が動転していたらしく、電気のスイッチを切っただけで、ブレーカーを落とす事を忘れていた。その事に気が付いたのは車でだいぶ走った後だった。

長岡の事務所を出たのが、本震から1時間半ほど経過した、午後7時半頃。
長岡でも停電していない町内が有ったが、ほとんどの町内は停電しており、当然、信号も止まったまま。左右を確認しながら恐る恐る交差点を抜け、とにかく栃尾に向かう。 道路の脇に停止したままの車が何台もあり、市街地の道路は思ったより通行する車が少ない。 道路脇の通路には、揺れを恐れて家から外に飛び出した人が大勢立っていた。暗くて顔の表情はよく分からなかったけど、みんな放心状態のように感じられた。
悠久山街道を八方台方向に走り、東山沿いに乙吉に出ようと車を走らせる。車の燃料が少なかったのでスタンドで給油したかったが、少し走っただけでそれが無理な事が分かる。 余震と停電で、どこのスタンドも営業していなかったのだ。
途中、通行止めが何箇所もあり、迂回を繰り返す。その時は、悠久山方面の被害がひどかった事を知らなかった。 とにかく、「大変な事が起きているらしい」という事が、はっきりと理解できた。そして、「家まで本当に帰れるのか」というが不安がよぎる。

なんとか乙吉の交差点まで辿り着いた。
この信号を越えれば新榎トンネルを通って栃尾に帰れる。しかし、交差点の先に人が立っており、栃尾へ向かう道は閉鎖されて通行出来ない状態。 どうやら国道351号線は、通行禁止らしい。仕方ないので、見附経由で桑探峠を通り栃尾に入る事にする。
信号から数100メートル進むと渋滞に引っかかった。ここから先は、ずっと車が続いているらしい。この地点から栃尾に入るまで、まだ10キロ以上の距離があるはず。
渋滞中の車から携帯で家に電話を入れるが、相変わらず通じない。不安は募るばかりだ。

続く...


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