稲荷山 東光寺(とうこうじ)の歴史
東光寺が曹洞宗として開かれた時代は安土桃山時代の天正年間(一五七三-九一)です。栃尾谷内の常安寺四世簾叟秀頓大和尚によって、真言宗寺院より曹洞宗寺院として改宗されました。(一説に、当寺はもと会津山内氏の遺臣が越後に逃れて健立した真言宗寺院だったといいます)
このことは東光寺仏像に関する由来が書かれた貞和文書が開基家(東中野俣新山区)お梅家に残ることからわかっています。
この貞和文書は、弘照法師から諏訪縫殿正高晴に宛てたもので、東光寺の三仏といわれる大日如来(新潟県県指定文化財)、毘沙門天、不動明王の由来について述べており、子々孫々にわたって、この三仏を護持して欲しいという依頼の置文(遺書のこと)になっています。
※貞和文書については長岡市のホームページ内で紹介されています。詳しくは≪こちら≫
本尊
その本尊大日如来像は、高わずかに五六.五センチの小像ですが藤原時代後期の典型的作品です。桂材寄木作りで、漆箔仕上げ、金箔は七百年の信心の祈りによって黒ずみ、威光を放っています。
本尊大日如来の脇侍として伝わってきた毘沙門天と不動明王が金剛界の闇を砕いています。この三体は県の文化財指定により本堂裏の山腹に移され、しずかに時をうつしています。
※詳しくは《仏像・彫刻》を参照のこと。
本堂
三百年ほど前一度火災に遭い、その後東中野俣の半分が地すべりにも遭い現在の地に移設されております。
本堂は明和二年(約240年前)に魚沼の棟梁細貝正常彫工により再建されています。
万霊山 満福寺の歴史
昭和28年まで新潟市火葬場(白雲郷)として30万市民の青山斎場と共に歩んできましたが、海岸の浸食でその使命を終え、山と積まれた骨灰を哀れみ、お地蔵様を建立し(昭和30)お寺を建立したのが始まりです。
現在東光寺28代目住職が満福寺4代目住職を兼ねています。